目次

2000年1月31日(月) 朝 - 仕事
2000年1月30日(日) 夜 - 仕事 / DDR / メールマガジン『Perlクイズ』 / わくわくワークショップ(仮名)/ Amazon.com / 朝 - 仕事 / 著者をうまく利用する方法 / メールを書く心がけ
2000年1月29日(土) 夜 - 本音の祈り / 昼 - 仕事 / ラマ本とヤモリ本 / リコーダー演奏 / 熱 / 朝 - 仕事 / 異言を伴なう聖霊のバプテスマ / @niftyのCGI事情をご存知の方へ
2000年1月28日(金) 夜 - 家内高熱 / 昼 - 仕事 / 作品の公開と批判の受容 / 朝 - 新企画「メールをベースにしたワークショップ」
2000年1月27日(木) 夜 - 文章 / 教師 / 恐れを抱いている方へ / 朝 - メールマガジン『Perlクイズ』
2000年1月26日(水) 仕事 / キーになる人
2000年1月25日(火) 朝 - 広告 / 仕事
2000年1月24日(月) 夜 - 面接 / 朝 - 仕事
2000年1月23日(日) 昼 - 仕事 / 幻想の終わり / 失敗してもいいんだよ
2000年1月22日(土) 仕事 / 家内 / 愛の練習場
2000年1月21日(金) 夜中 - 仕事 / きまたま日記 / 昼間 - 希望 / 信仰
2000年1月20日(木) ワインバーグ
2000年1月19日(水) 夜 - ページデザイン / 昼 - 「豊かな人生のための四つの法則」への反論とそれに対する返事 / 朝 - 原稿書き
2000年1月18日(火) 夜 - 新連載「Perlプログラミングの楽しみ」 / 朝 - 文章を書いて考える
2000年1月17日(月) 舞踏会
2000年1月16日(日) 夕方 - 批評家には黙ってもらおう / クラッカー(?) / 昼過 - かなう祈り、かなわない祈り / 早朝 - UpFtp 1.0.0
2000年1月15日(土) 夜中 - メールへのお返事 / 夜 - 日記めぐり / 昼 - 味噌汁 / 注射 / 朝 - Net::FTPの練習 / [Letter]
2000年1月14日(金) 夜 - MakeWeb 3.0 / 昼 - 寝込む / 落ち込むパターン / 性格 / 朝 - 不調と復調
2000年1月13日(木) 仕事 / 掲示板運営
2000年1月12日(水) 打ち合わせ
2000年1月11日(火) 深夜 - 青空文庫 / 夜間 - 父
2000年1月9日(日) 原稿 / 義父 / 祈ろう!
2000年1月8日(土) 多忙
2000年1月6日(木) 日常
2000年1月5日(水) 仕事始め
2000年1月2日(日) 統計
2000年1月1日(土) 新年
日記一覧

2000年1月31日(月)

朝 - 仕事

2000年1月31日(月) 00:00

朝、C MAGAZINEの連載原稿書き。 一気に書くつもりだったが、 本来formatを使うべきところを無理やり正規表現でやろうと試みていたことに気がつき、方針変更。 やれやれ。 たぶんあと(正味)2時間くらいで完成の予定。

2000年1月30日(日)

夜 - 仕事 / DDR / メールマガジン『Perlクイズ』 / わくわくワークショップ(仮名)/ Amazon.com

2000年1月30日(日) 00:00

ノートパソコンの電池が切れたので、一休み。 イタリヤ料理店でジンジャエールとピザのランチセットを注文。 ピザを食べながら『Effective Perl』を読む。 とても面白い。目から鱗である。 この本は初心者向けではないけれど、とても刺激的な本だ。 メールマガジン『Perlクイズ』の読者が勧めるだけのことはありますね。 テーブルの上のナフキンの上にボールペンでいろいろとプログラムを書いてmap, sort, grepの練習をする。

日曜日なので、街角のゲームセンターには人がたくさんあふれている。 Dance Dance Revolution(DDRっていうんですか?)をうまい人がやっているのをはじめて見た。 楽しいですね、あれ。やってたのはカップルだが、 ステップをよく考えているらしく、足の動きがOptimizeされていた。 結城はああいうのはさっぱり駄目だけれど、見ているだけでもとても楽しい。

メールマガジン[PQ]のNo.0044を発行する。 発行後1時間半して、解答の第一便到着。早いなあ。 何度も何度も書いていて恐縮ですが、 メールマガジン『Perlクイズ』は楽しい。 けっこう盛り上がっているし、参加者もまた増え始めている。 現在は、1407部。27日に1371部だったから、3日間で36人も増えている。

結城は自分でPerlプログラミングしているときの経験や、 本を読んで学んだことや、連載や書籍で使いたい題材を、 クイズという形にしてメールマガジン『Perlクイズ』に提示する。 すると、初心者から経験者までさまざまな読者がそれに挑戦してくれる。 毎回数人は結城よりも美しい解答を書く。 毎回数人は結城が思いつかなかったアプローチを試みる。 ある人は詳細な文章で説明を試み、別の人はたった一行だけバシッと正解を書く。 そして、ほとんどの解答者が「他の人の解答が読めて楽しい」と感想を書いてくれる。

その中で結城の果たしている役割って何だろう。 私はあまり「教えて」はいない。解答も出すだけで、そんなに詳細な説明はしていない。 読者からの解答を全部読んで、全部動作テストして、分類整理して、 次回のクイズ発行時に「前回の解答」として提示するくらい。 まあ、コーディネータかエディタというところだろう。 私はけっこうこういう立場は気にいっている。 みんなが知恵をしぼって素敵なマガジンにしてくださっているわけだ。

これまでに何回か私は間違いをしているが、みなさん寛容に受け止めてくれるし、 いつも励ましてくださる。ありがたいことだ。 メールマガジン発行者にすぎない私に、 Perlの解答に添えて「今度結婚しました」というメッセージが書かれていたときもあった (女性解答者。もちろんその次の「読者からのお便り」でお祝いしました)。 トリッキーな問題で「やられたー」とくやしそうなメールが来るときもあるし、 その回で最も美しいコードを書いた解答者から「やったぜ」とうれしそうなメールが来るときもある。 私が風邪で寝込んだときはお見舞いのメールがたくさんやってきた。 とにかく楽しいメールマガジンなのだ。 このメールマガジンをはじめた経緯を忘れちゃったけれど、 はじめてよかったなあ。

原稿書きの気分転換に、 結城浩の『わくわくワークショップ』(仮名)の原稿書きをする。 まあ、これも気長に準備しよう(ってすでにホームページはできていたりするのだが)。 次は気分転換の気分転換の気分転換に…何しようかな。 (いいの、もう今日はお仕事の原稿は書かないの。)

今日の買い物。 『実用Perlプログラミング』(オライリー・ジャパン)ISBN4-900900-82-6(黒ヒョウ本) Perlの内部データ構造が書いてあるので。

(リンクを張ってはいますが、 結城はこの主張(Amazon.comボイコット)に完全に賛同する意図を持っているわけではありません。 念のため)

朝 - 仕事 / 著者をうまく利用する方法 / メールを書く心がけ

2000年1月30日(日) 00:00

早朝、UNIX USER連載のプログラムのデバッグ。 バグの原因は、 GETメソッドでBase64の文字列を送るとき、 最後のパディングである「=」をそのまま送ってしまったので HTTPサーバが何か誤解をしていたらしいと判明。「%3D」に変換したらうまく動作した。 ぱちぱち。 今回の題材は、 アプレットからWeb掲示板経由でメッセージを交換し合うというもの。 まあまあ面白い。 サーバ側でServletを動かすというのが筋かもしれないが、 PerlでCGI書いたほうが手軽なのであった。 それに、 CGI動かせるプロバイダは多いけれど、 Servlet動かせるプロバイダって少なくないですか(あるのかな)。 ま、というわけでプログラムは完成。後は文章を書けばよい。

礼拝の後、朝食+昼食を食べながらC MAGAZINEのプログラム+文章書き。 早くも3回目の原稿なのだが、なかなか面白い。 おおまかな課題があって、少しずつスクリプトを進化させていきつつ、 一緒にPerlを勉強しましょう、という連載ですね。 メールマガジン『Perlクイズ』での出題と読者からの解答が大きな助けになっています。 みなさま、ありがとうございます。ぺこり。 しかし、Perlって面白い言語だなあ。

先日@NIFTYのCGI事情について知りたいという話を書いたら、 さっそく読者からとても丁寧なメールをいただく。 感謝します。うるうる。

著書に対する質問のメールは毎日多数やってくる。 それはもちろん感謝なことなのですが、 読者の側がほんのちょっとした工夫をしていただけると、 もっと確実なアドバイスができるのに、と残念な場合が多くあります。 その「ほんのちょっとした工夫」というのは単純なことです。

  • あなたの意図だけではなく、入力したコマンドそのものを書いてください。
  • あなたの解釈だけではなく、表示されたメッセージそのものを書いてください。

解決の助けに ならない 情報の例を以下に示します。

  • 「何度も試しましたがうまくいきません」
  • 「いろいろやりましたが動きません」
  • 「何だか変です」
  • 「表示がおかしいです」
  • 「確かめましたが間違っていません」

以上の情報がきたときには、以下のように返事することになります。

  • 「具体的に何を試したのですか」
  • 「何をやったのですか、『動かない』とは表示が出ないのですか、エラーメッセージが出るのですか、どんなエラーメッセージですか」
  • 「『変』とはどういう意味ですか。何と表示されましたか」
  • 「『おかしい』とはどういう意味ですか。文字化けをしているのですか、エラーメッセージが出るのですか、どんなエラーメッセージですか」
  • 「『確かめた』とはどのようなコマンドを実行したのですか、何と表示されましたか」

これではメールの一往復が無駄ですよね。 上記の返事に対して、さらに読者から 「ええ、何度も試しました。 おかしなエラーメッセージばかりが表示されます。 絶対に間違ってないのに、もう困ってしまいます。どうにも変なのです」 という返事が来たりすると、 私も困ってしまいます(腹が立つことはありませんが)。 もどかしさが伝わるかしらん。

正しく自分の状況を解釈説明できる人は、 ほとんど自力で問題解決できるのです。 他の人の助けを借りる場合には、 意図や解釈だけではなく(それらも大事ですけれど)、 事実(コマンドやメッセージ)を提示するのがよい方法だと思います。

実際、あなたのすぐそばに立っていて、 あなたのやることを見、表示されているメッセージを見ていたら、 すぐに解決する問題がほとんどでしょう(解決できなくても、何を次に試せばよいかがわかる)。 ですからうまい質問は「 自分が見ているものを相手にも見せてしまう 」ように書くことですね。 それでも解決できなかったら、そばに立っていても解決できない問題だったわけなのです。

状況の説明が具体的であればあるほど、事実の記述に近ければ近いほど(例えば、 エラーメッセージはタイプするのではなくコピー&ペーストする)、 解答は具体的なものになります。 まあ、でも今書きながら思ったんですが、 こういうのも「慣れ」かもしれませんね。

誤解しないでいただきたいのは、 私は読者を批判しているわけではない、ということです。 問題が解決するのは両者にとってハッピーなこと。 もっとうまく著者を「利用」してほしいなと思うのです。

いい方法だと私が思うのは、 メールを送る前に、1度それを 自分で読み返してみること です。 もしも自分がこのメールを受け取ったら、 問題を解決できるだろうかと自問してみるのです。 これは、とても効きます。

もちろん、私の方もそれをやっています。 「この返事を送ったら、読者は問題を解決するだろうか」ってね。

実は、この「メールを送る前に読み返す」というのは「メールを書く心がけ」の1つですね。

ところで、読者からの質問メールの中には、 こちらが「ああ、何と素晴らしい文章」と思うようなお手本メールもあったりします。 要点が整理され、質問が明記され、しかも愛情と思いやりに満ちていて、 読むとはっと目が醒めるような文章。 問題解決することで、こちらの知見も深まり勉強になるようなメール。 そういうメールが来ることもあります。 そんなときは、つい返事を早く出したくなるのですが、 そういうメールに限って最後に 「お忙しいでしょうから、お返事はお時間があるときにでも」とか、 「以上はご参考までにお知らせすることです。ご多忙でしょうからお返事は結構です」などと書かれていたりする。 うーむ。 私もこんな素晴らしいメールを書けるようになりたいものです。

2000年1月29日(土)

夜 - 本音の祈り

2000年1月29日(土) 00:00

それでもって、夜である。 ひとしきり仕事をしたあと「今日はもうおしまいっ」という気分になったので、 ビールとおつまみと食べ物をコンビニで買ってきてゆっくり夕食。 やれやれ。

仕事といっても、結城の場合、何が仕事やら趣味やら遊びやらよくわからなくなっている。 仕事が遊びの気分転換だったり、遊びが仕事の刺激だったりして。 ともかくいろんなことを、いろんな人の助けを借りてやっている。 感謝なことである。 でもやっぱり一番感謝すべきなのは神様だなあ。

よい問題解決者は、大きな問題を1つ抱えるのではなく、 小さな問題をたくさん抱えているんだって。 ワインバーグが書いていた。どっかで。 一番大きな問題って、やっぱり生き死にの問題とか、 あとは、自分の「何か」だよねえ。 でも、そういう一番大きいところは、実はもうイエスさまによって根本的に解決済みだから。 そうそう。いっちばん難しいところはさあ、十字架でもう解決済みなんだから。 あとは、各人の負える重荷を、誠実にやるだけじゃん。

とはいえ、しょっちゅう失敗したり、迷ったり、悩んだりするんだけれど。 自分の内部で解決したとしても、人間関係って、相手があるものですからねえ。 自分を変えられないのに相手を変えられるわけがない。 でも、相手の方を変えたくなるのがこれまた人情ときているわけだ。 あいつが悪い。あいつがこうすれば、すべてうまくいく。 なんであいつはこうしないんだろう。 そんな思いが(明確に言語化はしないけれど)しょっちゅうわいてくるもんですよね。

明確な言語化って実は重要なんだよね。ロバ耳もそのためにある。 自分の心の中に浮かぶことって、自分で意識しているようだけれど、 実はあまり意識化されていないし、整理もされていない。 理性的に考えているつもりでも、87%くらいは感情に支配されている。 そこで言語化だ。言葉にする。自分が考えていること、自分が思いあぐんでいることを 言葉にしてしまう。なあに、誰が見るわけでもないから、好きなように書けばいいのだ。 書いて、すぐ消しちゃえばいい。自分の筆の(キーボードの)おもむくままに、 自分の考えるとおりのことを書いちゃえばいい。

そうすると、何かが変わる。自分の中の何かが変質し、整理される。 書いているうちに、つまりそれは思考のSerializationといってもいい。 (シリアライゼーションには java.io パッケージが必要ですが、 いまの話題には関係がありません :-P) 自分の思うとおりに書けばいい。何でも。自分の中の批判者をちょっと黙らせてね。 自分の中の批判者(良心といってもいい。両親?字が違うって。自我が違う? 違う違う。 自画だって<いいかげんにしろ)をいったん黙らせて、 本当の自分にしゃべらせてみるのです。

神様を賛美するなら、本気で賛美しよう。 神様に疑問があるなら、大声で、神様にうったえよう。 本気で、自分の中の熱をすべて集めて、神様にうったえよう。 「神様、どうしてですか」ってね。 神様は、そのへんのちっぽけな賢者とは違う。 何しろ、この天地を創った方なのだ。 あなたのどんな訴えでも、ぜんぶそのまま受け止めてくださる。

本気で、本音で何でも言える場所が人間には必要だ。 馬鹿なことをいっても、公序良俗に反したことをいっても、 非道徳なことをいっても、どんなにとっぴなことをいってもいい場が必要だ。 願わくはそれは夫婦間で共有する場所であってほしい。 親子を含めた「家族」にその場を広げるのは難しいが、 家族でもそれに近いものであってほしい。 まあ、ともかく。 人間には、全部を告白する場所が必要だと私は思う。

自分が何かを思う。すると、心のどこかに、それを責める何かがいる。 そういうのを感じませんか。 もちろんそれはよい場合もあるけれど、よくない場合もある。 正しい主張がいつも愛に満ちているとは限らないのです。 サタンの策略にご注意。 間違った行ないをしている自分を、良心は責めるだろう。 そこまではまあいい。 サタンはそこで微妙に、巧妙に方向を曲げる。 つまり、間違った行ない→良心の責め の先に、 …→自分自身の「引き下げ」を持ってこさせようとするのだ。 「ほら、やっぱりだめじゃん」とか、 「ほら、また。何度やっても無駄無駄」とか、 「おまえは、○○の子どもだからな。遺伝子がそうなっているんだよ」とか、 「きっと未来もずっと同じことのくりかえしさ」とか、 巧妙にマイナスのスパイラルに引き入れようとする。 それは(たとえ一面に真実を含んでいるとしても)愛なる神様の言葉ではない。

間違った行ない→良心の責め のあとには、自分への引きこもりではなく、 神様への方向転換がくるのが正しいのだ。 「ああ、私は自分の力でできるとつい思ってしまった。 今回のこれも失敗だった。神様。これを認めます。 これが私のいまの実力です。でも神様は私を作られた方ですから、 あなたの御心のとおりに私を変えることができる方です。 主よ、私の悪い行いを悔い改めます。 聖霊様、いま心を開いてあなたをお迎えいたします。 どうぞ私を正しい愛の道へと導いてください」

そのように、そのように、自分ではなく神様を見上げよう。 神様を求めよう。神様とのパイプをしっかりと整えよう。 それでこそ良心の責めが意味を持つのだ。 サタンは巧妙だ。その策略を見破らなくてはならない。 サタンは真実の中に巧みに嘘をまぜるのだ(詐欺師と同じだ)。 だから一部真実があったとしても、サタンに従う必要はないのです。 サタンは本音の祈りをいやがります。心から信じる祈りをいやがります。 なぜなら、そのときは必ず神様の直接的な介入があるからです。 わたしたちが自分の力で何かをしようとするとき、 サタンは大喜びです。 サタンは神様には負けますが、人間をだますのはちょろいもんだからです。

私たちは何度も何度も落ち込む。 失敗する。罪を犯す、過ちを犯す。 人を裏切る。神様を悲しませる。 その繰り返しが人生といってもいいくらい、なさけない存在だ。 しかし。しかし、あきらめるべきではない。 サタンの策略に耳をかしてはいけない。

こまめに祈り(心から信じて祈り)、 自分の生活の中で常に神様に介入していただきましょう。 神様を信じ、そして、人をゆるしましょう。 イエスさまの十字架をいつも思い出し、聖書を読み、祈りましょう。 どうせこの世での生活は100年かそこらなのです。 その愛の訓練を一つ一つ(失敗しつつも)神様にゆだねつついきましょう。 何度もね。繰り返しね。

これを読んでいるあなたと同時代に生きていることを心から神様に感謝します。

あなたに豊かな主の祝福がありますように。

おやすみなさい。

昼 - 仕事 / ラマ本とヤモリ本 / リコーダー演奏 / 熱

2000年1月29日(土) 00:00

朝食を食べ、お茶を飲みながらいろいろと仕事。 その後バッテリーが切れたので本屋さんで勉強する本を仕入れる。 お茶を飲み、昼食を食べながら本を読む。 ちなみに買ったのは、 メールマガジン『Perlクイズ』の読者の何人かが勧めていた『Effective Perl』(アスキー)ISBN4-7561-3057-7。 それから青ラマ本ISBN4-900900-81-8と青ヤモリ本ISBN4-900900-79-6(ともにオライリー・ジャパン)。 ヤモリ本は、『初めてのPerl Win32システム』というやつです。 ラマ本とヤモリ本は内容も微妙に違うが、翻訳も微妙に違っていてとても面白い。

その後、町中をふらふらと歩く。 駅前でギターを弾き、歌を歌っている若い男性グループがいて、しばし足を止めて聞き入る。 大阪から来たとのこと。結構うまかったなあ。 まわりには女子高生があふれていた。

家に帰ってきてから、一人でさびしいのでリコーダーを吹いて遊ぶ。 ついでにまた録音してMP3にして公開します。 "Lord, Speak to Me, That I May Speak"

家内の熱はもう下がったとのこと。 みなさまのお祈りを感謝します。 癒し主なる主に感謝。

朝 - 仕事 / 異言を伴なう聖霊のバプテスマ / @niftyのCGI事情をご存知の方へ

2000年1月29日(土) 00:00

早朝、UNIX USER連載のプログラム書き。 プログラムはできたのだが、バグがなかなかとれない。 ふむ。 行き詰まったところで、気分を切り替えて、書籍の原稿書き。 本の原稿書きってマラソンみたいだ。 今日も文章書きとプログラム書きの1日になりそうである。 でも、よい天気だから外にも出ることにしよう。

「異言を伴なう聖霊のバプテスマ」という文章を公開します。 クリスチャン向け。

そうそう、最近、 『Perlで作るCGI入門』への質問メールで @nifty からのユーザからのものが 多くなってきています(ゲストブックを設置したけれど動きません、というようなものですね)。 いま @nifty でCGIを公開していらっしゃる方がこの日記の読者にいらっしゃいましたら、 @nifty でのCGI事情について教えていただけたら感謝です。 読者からの質問に回答するときに役立てたいので。

  • Perlのパス
  • .htaccess
  • CGIのディレクトリ、データファイルのディレクトリ
  • CGIやデータファイルのパーミッション変更方法
  • SSIは使えるか?
  • その他CGI設置に関する注意点

2000年1月28日(金)

昼 - 仕事 / 作品の公開と批判の受容

2000年1月28日(金) 00:00

朝、朝食を取りながらUNIX USER連載のプログラム書き。 今回はアプレットとWeb掲示板の連携を題材にする。 そう大きなプログラムではないが、 応用はいろいろ効きそうな楽しいプログラムである。 あと3時間くらいで完成しそう。

昨晩の打ち合わせの後、 バザール方式と著者のオープンさの度合いについて少し考えた。 連載でも著書でもWeb日記でも何でもいいけれど、 何か作品を公開するということは、他の人の批判に自分の身をさらすということでもある。 ホームページを運営している人は誰しも経験があると思いますが、 自分が書いた文章に対して、 レスポンスが思わぬ方向からやってくるというのはめずらしいことではない。 見当違いの批判とか、単なる誹謗中傷とか。 建設的な意見だが感情的なメールとか。掲示板の変な書き込みとか。 まあそういうものが多かれ少なかれやってくる。 一発目のパンチでもういやになって公開をやめちゃう人もいるし、 攻撃には攻撃をもって戦う人もいる。 無視する人もいるし、受容する人もいる。

私はどちらかと言えば受容する割合が高いと思っている。 私は自分の書いたものを愛していて、 それに関わってくれる人のことは大概は好きになる(たとえ批判でも)。 本当にまったく見当はずれの意見というのは実は少なくて、 何らかの真実を含んでいることが多いものだし、 批判者自身が言葉の選び方を間違っているだけのことも非常に多い (そんなつもりで言ったのではない、ってやつですね)。

私が避けたいと思っているのはそういう意見や批判のチャンネルを「切る」ことである。 自分の周りにイエスマン(迎合する人)だけを置きたくはないのだ。 「何でも私におっしゃってください。お返事は約束できませんし、 あなたの意見をすべて取り入れるわけではないですが、 何か思うことがあったら、何でも言ってくださっていいんですよ。 いつでも、どんな内容でも、どんな表現形態でもいいので、 あなたの好きなように私に伝えてくださいな」 という姿勢でいたいような気がするのである。

あっ、だから私はいろんなチャンネルによるフィードバックを用意しているのか。 「結城浩メーリングリスト」「ロバ耳」「subsession」「フィードバック」「メール」 「掲示板」「Letter」…ええと、ええと。 ふうん。なるほどね(何をいまさら)。 実際、 読者からのメールでプログラムの間違いや、Webデザインのまずさや、 霊的な間違いに気づいたこともたくさんあるのだ。 その多くは、たぶん、送った方はそれほど意識していなかったかもしれない。 でも、私にとっては重要な、かけがえのない一言だったりするのです。

私はインターネットのオープンさ、 というものはうまくその性質を利用すると、 大きく役に立つと思っている。 そのときに必要になるのは、自分にやってくる「批判」をどう受け止めるかによる。 私が作ったものは私の作品である。 Webも、プログラムも、文章も。すべて私が書いたものだ。 でも、私はそれが完全だとは思っていない。 多くの人の目にさらされ、いろんな環境で試されると、 もっとよりよいものに育っていく可能性があるのだ。 多くの人からの意見や批判を受けた私が、私というフィルタを通して各作品をブラッシュアップしていくと、 それは私らしさを失わずに、しかも多くの人の助けを借りてよりよいものになると思う。

ですからこれをお読みのみなさん、ぜひお気軽にフィードバックをくださいね。 そしてインターネットで作品を公開しているみなさんも、 うまくフィードバックを活用してあなたらしい作品を育ててあげてください。

朝 - 新企画「メールをベースにしたワークショップ」

2000年1月28日(金) 00:00

また、新企画を思いついた。 メールをベースにしたワークショップのようなもの。 実生活でぶつかりがちな問題点や、 ひっかかりやすい心の状態、 いきづまりに対するワークショップ。 仮想的な題材を元に実際に自分で取り組むようなもの。 …って書いても読んでいる人にはさっぱり意味不明ですよね(^_^; まあまだ固まっていないので(というのはうそだな。けっこう固まっては来ている。 自分の中では。あとは時間がとれれば…)

この企画は、Webでもなく、メールマガジンでもないものにしてみようかな。 うーん、強いて言えば「シェアテキスト」のようなもの。「シェアメール」かな(^_^) 基本的に無料で参加できる。 もしもお役に立ったなら、最後にいくらかのお金を払ってくださればうれしい。 気に入らなければ途中でやめてもよいし、 最後まで参加した後で「役に立たなかった。つまらなかった」ならばお金を払わなくてもいい。 というもの。 その料金というのは1000円くらいで、それで10通分のメール。 だから1本100円の缶ジュース的気分転換とも言える(あ、110円だっけ)。 週に2回で4週間(8通)プラス2通の合計10通で1つのワークショップを構成する。 ワークショップはとりあえず3つくらい用意して、個々に申し込む。 申し込むのは簡単で、メールアドレスだけでよい。個人情報はいっさい不要。 申し込むとメールが定期的に10通届く。 あとはそれを読んで読者が考えたり行動したり。 申し込み受付は随時。やめるのもすぐにできる。

企画の宣伝はホームページや[ML][PQ][JQ]などを使って行なえばよいか。 そうか、メールマガジンって自分が持っている広告媒体なんだね。 3000人に1度に宣伝できるんだものなあ…(っていまさら)。

内容はいま練っている最中。 感じとしては「心の健康」の実践版に近いかな。 でもプログラマ向けってわけじゃない。 生活や毎日がちょっと行き詰まった感じのときに、 それを「はずす」きっかけになればいいなあ、という企画ですね。 きっと、やりはじめたら面白いものになるはず。

ええと、ここまで読んできて、あなたはどう思いました? 「何か面白そう」 「もしはじまったら、参加するかも」 「ぜひぜひ、やってほしい」 という方がいらっしゃいましたら、 hyuki@hyuki.com または この日記ページの下の方にあるフォームを使って 一言応援の言葉をいただければうれしいです。 「そういう企画なら、こういうアイディアもあるよ」というご意見もぜひ。

2000年1月27日(木)

夜 - 文章 / 教師 / 恐れを抱いている方へ

2000年1月27日(木) 00:00

夜、新しい仕事で打ち合わせ。担当の方も、とてもよい方でうれしい。感謝。 前もって送っておいた文章も読んでくださり、 いろいろとコメントをいただく。ありがたい。

いま、私はプログラムと文章を書いて生計をたてているわけだが、 小学校や中学校の時代には「国語」が一番点数が悪かった。 先日父に会ったときに私が「文章を書く心がけ」というページの話をすると、 父は小学校時代のことを「国語が苦手だったのにねえ」と笑う。 私も一緒に笑う。 まあ、学校の成績なんて、そんなもんですよね。

どういう教師に出会うか、というのは大切なことだと思う。 特に、励ましを与えてくれる教師は貴重である。

話はそれるけれど、結城のサイトに「自分探し」というページがある。 ちょっとした質問がでて、みんな(10人)が答えるというだけのページだ。 質問はすべて結城が考えたもの(一部投稿もある)だけれど、 自分で答えようとするとけっこう考え込んでしまう。

正直な話をすると「自分探し」というキーワードはあまり好きではない。 自分探しが必要だと思っている人は、 本当は自分以外を探す必要があったりするからだ。 本当に楽しんでいるときって、自分のことを忘れていますよね。 自分ばっかり見つめていても、自分のことはわからない。 実際、日常生活でも、自分を見たかったら、自分を直接見るのではなく鏡を見る。 自分のことをよく知りたいと思ったら、他のものや他の人を見るほうがいいことも多い。 自分はこれこれこういう人間だと思っていても、 仕事や学校などで他の人と接すると違った自分も引き出されていく。 そして驚いたり、喜んだり、幻滅したりする。

私が洗礼を受けたときの話は以前も書いたような記憶があるが、 もう一度書くと、洗礼準備会みたいなものがあった。 信仰を得て、洗礼を受ける決心をした後、 牧師さんといっしょに聖書とキリストの救いについての基礎的なことを学ぶわけだ。 その中で出た話がその「自分探し」だった。 「私は誰なのか?」というのは哲学上の問題でもあるし、 大人になろうとする人間の根元的な問いでもある。 そのときに、じゃあ「何を鏡にするか」ということがポイントになる。 普通は人、それもたくさんの人を鏡にする。 一人一人は鏡としてはゆがんでいるわけだが、 全体として「自分はこういう人間かな」とつかむわけだ (そうそう、ちょうど「賢者の贈り物」のデラが安い鏡に自分をうつすときのようにね)。

完全な鏡がある。それは神だ。 完全な人格、完全な愛、完全な実在である神という鏡に私をうつす。 そこで普通は自分の現状のみじめさと卑小さに気づく。 そこで終わったなら、 つまり、聖書を読み、神のすばらしさや厳しさを知っただけで終わるなら、 それは悲しいことである。 それはありがちなことだ。聖書を読んで、あわてて「ああ、私にはこれは向かない。 私にはこれはついていけない。これをやれと言われたら私は困ってしまう(今の自分の生活だけでもアップアップなのに)」 という結論に達してしまい、 それっきり聖書を見向きもしないとしたら、もったいないことだ。

聖書の教えを、 自分の力で守る道徳的な教えとしてだけ見たら、 これは大変なことである。 これを自分の力で守ることができるという人がいたら、 神様自身か、うそつきか、何か勘違いしている人なのではないか。 聖書を読んで、神様がどんな方かを知ろう。 本当の意味で知ろう。

神様は実際にいる。 そして私たちを愛している。 「愛している」ということは無関心ではない、ということだ。 それどころか、深く深く関わろうとなさる。 愛する、ってそういうことですよね。 私があなたを愛しているっていうのは、 どんな小さなことも、 どんなつまらない(と他の人が考える)ことも、 あなたが考えること、 あなたがすることのすべてに私は関心があります。 っていうことですよね。 そしてまた、私があなたを愛しているっていうのは、 あなたをロボットや機械のように扱わない、っていうことでもある。 あなたを尊重し、可能な限りあなたの意向を汲んであげたい。 命がけで助けを与え、力を尽くす。 それもまた愛。 そしてその上に、たとえそれがあなたの意向だとしても、 それがよくないことならば、時には厳しく反対したり、 ときには命をかけても防いだりする。 それもまた愛なのだと考える。 神様が私たちを愛する、というときは、 そのような本当の愛をもって愛してくださるのだと私は信じている。

聖書は、基準を与える。それはよいことだから。 神様は、わたしたち一人一人を特別な存在として関心をもっておられる。 神様は、わたしたちをロボットのようには動かさない。 自由意志を与え、 地方自治体のようにわたしたち自身にわたしたち自身(の一部)を管理させる (たとえそれがときに大失敗をやらかすにしても)。 しかしそれをうまくやっていけるように、 イエスさまを送ってくださって罪からの救いをお与えになる。 聖霊様を通してわたしたちが力を得るようになさる。 ときに傲慢という恐ろしいわなにかかるのを防ぐために戒めを与えてくださる。 また他の人を通して厳しい一言が与えられることもある。

何度も、何度も、自分は駄目駄目音頭を踊ってしまう。 聖書を読んでは「自分は駄目駄目」、 他の人を見ては「自分は駄目駄目」 本を読んでは「自分は駄目駄目」。 自分じゃなくて、神様を見ようよ。イエスさまを仰ぎ見ようよ。 神様からたっぷりと愛をいただいて、神様の愛にあふれた視点から、自分をみてあげようよ。 よい状態に至ったのでこれでOK、という静的なものを求めるのではなく、 たとえまた落ち込んだとしても、また神様によって引き上げられる、 何度倒れても、そのたびごとにまた立ち上がる、というダイナミックな働きを求めよう。 そしてそのダイナミックな動きの中で、他の人へ神様をのべつたえていこう。 自分は救われました、というだけではなく、 そんな自分も落ち込むことがある。「自分は」また何度も落ち込む。 けれども、そこで自分を見るのではなく「神様」を見るのだ。 私は何度も落ち込むが、「神様は」私を離さない(なぜなら神は愛だから)、 「神様は」私を見捨てない(なぜなら神は愛だから)。

なぜなら…聖書にそう書いてあるから!

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5より)

わたしたちはこの神様からの高らかな宣言になんと応答すればよいでしょう。 ねえねえ。 神様からのこのラブコールには、何とお返事したらいいのかな。 そう、聖書を読もう。聖書は次のように続いている。

主は私の助け手です。 私は恐れません。 人間が、私に対して何ができましょう。 (ヘブル13:6より)

アーメンですか? アーメン!

2000年の1月ももうすぐ終わりです。 週末に向かい、あるいは月末に向かい、 つらいときを迎えようとしている方もいらっしゃるかもしれません。 人間関係に悩む人、人に言えない苦しみを負っている人、 病のうちにある人、仕事に追われている人…。 でも、どうか、恐れないでください。 自分ではなく、神様を見上げ、神様からいっぱいに愛を受け取ってください。 主はわれらの救い主、助け主。 主がいつもあなたとともにおられますように。 イエスさまのお名前で祈ります。

アーメン!  ハレルヤ!

朝 - メールマガジン『Perlクイズ』

2000年1月27日(木) 00:00

朝、朝食を食べながら連載の原稿書き。 書いているとメールマガジン『Perlクイズ』の題材が出てくるので楽しい。 メールマガジン『Perlクイズ』は熱心な読者が毎回投稿し、 また一言コメントで場を盛り上げてくれるので、発行していてとても楽しい。 しかも、私自身が教えられることが本当に多い。 Perlというプログラミング言語自体、クイズに向いていますね。 いろんな書き方があるし。 メールマガジン『Perlクイズ』は現在1371部。 めざせ2000部(^_^)。

メールマガジンを発行するのはそれなりに技術も必要だし、けっこう時間もかかる。 それを無料で発行してどんなメリットがあるか。 一番大きなメリットは「楽しい」だね。実は。 それから「自分の勉強になる」「他の人の意見が聞ける」「自分の本の宣伝ができる」などかな。 まぐまぐメルマガイド2000で紹介されたメールマガジン『Java言語Q&A』も楽しいけれど、 メールマガジン『Perlクイズ』の形式の方が私にはしっくり来ているかな。 1000人くらいの人を前にしてショートレクチャをしている感じですね。 「大喜利」かもしれないが (^_^; 解答を送ってくださる方にはいつも感謝している。 解答を送るのはやはりプログラマが多いのだが、女性が多いのに驚く。

メールマガジン『Perlクイズ』をはじめたのは昨年の7月だ。 現在までに約70通発行している。すごいなあ。 これもいつか本にならないかな。>編集者様

2000年1月26日(水)

仕事 / キーになる人

2000年1月26日(水) 00:00

朝、原稿書き。その後ゆっくり入浴。 昼からプログラミングを少しやって、その後ミーティング。 年齢のせいか、以前に比べて話し方が図太くなってきたように思う。

仕事で、キーになる人を見つけ出すのはとても大事なことだと感じる。 情報を作り出している人、意志決定をしている人、 実情を本当に知っている人、人やお金を動かすことができる人。 必ずしもそれは表に出てくるとは限らないし、表に出てきても一番目立つとは限らない。

夕方からバグにつっかかり追いかけるがどうしてもわからず、 ヘルプを求める。コンパイラ関連の相違が原因らしい。ふむ。

私は集中して仕事をすることには特にストレスを感じない。 大事なのは、どんな仕事をいつするかという決定部分である。 やはり、祈りが大事だ。

電車の中でメールマガジン『Perlクイズ』の「若葉マーク」を書く。

2000年1月25日(火)

朝 - 広告 / 仕事

2000年1月25日(火) 00:00

最近、Webのオンライン広告について調査している。 この www.hyuki.com のいくつかのページにも広告を置いてみようかと考えているからだが、 「自分でやってみる」という姿勢で調査すると、とてもよく理解できるものですね。 いま考えているのは、画像広告ではなくテキストの一行広告で、 いくつかのWebページの最上位に掲示するタイプのもの(試しにトップページに『Java言語プログラミングレッスン』の広告を置いてみました)。 広告主は、広告代理店を通さずに、 自分で探そう(というかこのWebページ上で募集しよう)と思っている。 変な広告を出されても困るからだ。 儲けようとはあまり考えていない。 サイトの運営費や通信費が出ればよいなあと思っている(出るのかな)。

朝、スターバックスで書籍の原稿書き(原稿読み)。 書いているうちに連載のヒントを得たので、プログラム書き。 書いているうちにメールマガジン『Perlクイズ』のネタになりそうなので、[PQ]を書いて発送(1365部)。 正規表現は面白い。

2000年1月24日(月)

夜 - 面接

2000年1月24日(月) 00:00

今日は、 とある面接の面接官をやっていた。 まあ簡単に言えばプログラマの面接である。 求めている仕事に対する向き不向きとは別に、 自己アピール能力って大事だなあと思う。 うーん、ちょっと違うかな。 別にぺらぺらしゃべったりする必要はなくて、 自分が得意なこと、興味のあること、これまで書いたプログラムの内容と量、 そういうことをきちんと説明できる力というのかな。 それはとても大事だなあと思う。 で、そういうことを説明している姿を見ていると、 「信頼できそう」「頭がよさそう」「真面目そう」といった各種属性は自然に表面に現れてくるようだ。 …などとあまりえらそうなことは言えないのですが。

2000年1月23日(日)

昼 - 仕事 / 幻想の終わり / 失敗してもいいんだよ

2000年1月23日(日) 00:00

朝、礼拝。その後、喫茶店で原稿書き。とてもよい。 やっぱり、神様に祈ってから仕事をするって大事なんだなあとつくづく思う。

祈りを学ぶのに一番いい方法が祈り始めることであるのと同じように、 プログラムを学ぶのに一番いい方法はプログラムを書き始めることだと思う。 文章書きを学ぶのに一番いい方法は文章を書き始めることだし、 翻訳を学ぶのに一番いい方法は翻訳をしはじめることだろうと思う。 あなたが、何かを学びたいと思ったら、まずそれをし始めるのが一番よいのではないか。

したいなあ、と思うだけではなく何かをし始めてみるとすぐに気がつくのが、 「ちょっと、これは想像とは違うぞ」ということである。 祈ってみると、祈る前とは違う何かが(その何かは人や時によって千差万別)はじまるし、 プログラムを書いてみると、自分がぜんぜん書けず、何からどう手をつけていいやら途方にくれるし、 文章を書き始めてみると、自分の語彙の少なさや文章構成力のなさにあきれるし、 翻訳をしてみると、時間の大半は辞書引きに費やされて泣きたくなるし。 まあ、頭の中で想像するのと、実際にやるのとは天地の開きがあるものだ。

しかし、それはいい傾向であって、 誰しも現実的なチャレンジを行う人はこの「違うぞ」を感じているのだ。 まったく抵抗を感じていない人は幻想の中に生きているのである。 想像と違うことにショックを受けてまた幻想の中に戻ることもできるけれど、 そこでほんのちょっと視点を変えて、 じゃあ、このショックをどう自分の経験として受け止めようかと考えることができたら、 それは大きな一歩となる。 大きなショックは大きなトラブルではない。それは大きなチャンスなのだ。 何で自分にはプログラムが書けないのか、と実感として感じることができれば、 他の人はどうやっているのかとか、 ネット上にあるこのプログラムと同じものを自分が作るにはどうしたらよいかとか、 切実な問題としてプログラミングを学び始めることができる。

まず、やってみよう。 するとたいていショックを受ける。 でもそれはよい傾向だ。 そこでめげずに、現実的に問題に取り組むのだ。 自分にできるだろうか/できないだろうか、と悩むときも必要だけれど、 100万年悩んでいても「実際に」できるかどうかは誰にもわからない。 できるかもしれないし、できないかもしれない。 でも、100%確実に言えるのは、 いつか悩むのをやめて実際に何かを「やりはじめ」なければ絶対にできない、 ということだ。 そのときはじめて幻想が終わり、現実のチャレンジが始まる。 そして、あなたの幻想を終わらせることができるのは、世界中であなた一人だ。

失敗してもいいんだよ。

2000年1月22日(土)

仕事 / 家内 / 愛の練習場

2000年1月22日(土) 00:00

朝、仕事の話をえんえんと家内に電話で話す。 家内は、いつものようにふんふんと聞く。 そしてときおり私が驚くような本質的な質問や意見を言う。 こういうとき私は、家内が本当に賢い人なのだなあと感心する。 家内にそう言うと、へへ、と照れつつ笑う。 私は家内の意見に耳を傾けるが、 それは家内ががんがん意見を言うからではない。 むしろ逆で、家内がじっとこちらの言うことをよく聞いてくれるからだ。

逆説的なのだが、相手にこちらの意見を聞いてもらいたかったら、 相手の言うことをよく聞くのがよい方法だ。 つぼにぴったりあった指圧はそんなに力を入れなくても効く。 それと同じように、 相手の必要にぴったりあった意見はがあがあ言わなくても効くのだ。 そして相手の必要にぴったりあう意見を言うためには、 その前に相手の語っている言葉にじっくりと耳を傾ける必要がある。

スムーズなコミュニケーションは七難隠す。 自分が何をいっても怒られない、 何をいっても馬鹿にされない、 何度繰り返してもうっとうしがられない、 そのような保証の元での会話はとても気が楽だ。 そして往々にして楽しい。

きっとここまでは多くの方がうなづく。 でも。すぐに疑問がわく。 でも、そういうコミュニケーションはどうやったら確立できるんだろう。 (クリスチャン向けには聖霊様の助けを求める、という説明が一番直接的だと思う。 「聖霊の親しき交わり」という頌栄のメッセージは伊達ではないのだ。 聖霊が臨むとき、親しき交わりが回復される。でもいまはそっちの方向の説明には深く入らない)

コミュニケーションは双方向的である、というのは少し助けになるかな。 つまり、コミュニケーションがうまくいかないとき、 たいていの問題の原因は人と人との「関係」にある。 片方だけが原因であることは少ないのではないか。 ある人は「あの人がいけない」と言う。 ある人は「私が悪いのよ」と言う。 でもたいていは、どちらも悪くなくて「関係」が整っていないことが原因ではないか。 あいつがわるい、じぶんが悪い、どっちが悪い、 とやっているとそこで思考は停止してしまう。 停止しない場合には相手を矯正するか自分を矯正するか、 という話になってしまう。 悪循環。

関係を改善するにはどうしたらよいか。わからない。 多分、常に効く具体的な方法はない(神様に信じて祈る、という方法はあるが)。 常に効く一般的な方法はある。「愛」だ。 コミュニケーションがうまくいかないとき、 すなわち人間関係がうまくいかないとき、 たいていは互いが互いを避けたり、うっとうしくなったり、 会話がさらにぎこちなくなったりする。 そこを改善するのはやはり「愛」ではないか。 「だって、好きになれないもん」 ああ、いいです、いいです。 好きになれないなら好きになれないでも。 ヒントとしては、 自分と相手が原理的には同じ価値を持っていると思うこと(神様はすべての人を愛している)。 もしも自分が相手の立場だったら、どんな風に何を伝えてほしいかと想像すること。 好き嫌いは感情的なものだし、相性のようなものもあるから、 あまり好き嫌いにはこだわらず、 それとは独立に愛することを考えたほうが楽かもしれません。

いわばこの世は愛の練習場。 この地上の世を天国だと思いたい人には、 他の人とのやりとりがうまくいかないのは耐えられないかもしれない(何で神様はこんな困難があるような世の中を作ったのだろう、とか思ったりして)。 でもこの世を練習場だと考えると、さまざまな課題がやってくるのは自然なことであり、耐えやすくなるのではないか。 いきあたりばったりの(いわば一夜づけの)対処をしていると、なかなか課題をこなせない。 でも課題の中心にある学習要項 ---- 愛 ---- に気がつくと、ちょっと楽になるのではないか (もっとも、やってくる課題はときに難しくなるわけですがね)。 もちろん、時にはいきあたりばったりの対処だってすることもある。 逃げ出しちゃうときもある。 そういうときも、よくある。 でも、それもぜーんぶひっくるめて人生だ。 ああ、私のいまの実力はそういうものなのだ、とそのままそっくり認めよう。 自分の現状をマジに認めて、そこを出発点にする。 もしかしたら、 キリスト教における「罪の告白」というのはそういうことを含んでいるのかもしれない。 だから、愛なる神様に対して、自分の罪の告白をするのは非常に非常に正しいことなのだ。

そして、自分の現状を認めた後になってはじめて、はっ、と気がつくのだ。 自分が苦手なあの人も、私と同じ状況に立っているのだ、ということに。 具体的な課題は違うかもしれない。困難さの度合いだって比較はできない。 でも、わたしもあの人も、愛を学ばなくてはならないのだ。 愛なる神様から愛を受けなければならないのだ。 「愛」の練習場の中に、自分も、相手も立っているのだ。

2000年1月21日(金)

夜中 - 仕事 / きまたま日記

2000年1月21日(金) 00:00

急に仕事の話が持ち上がり、夕方から打ち合わせ。 何だか驚くくらい感謝なこと、いろいろ。 家内の方の仕事も一段落ついたようである。

ところで、のこちゃんの「きまたま日記」が楽しい。

  • のこちゃんのきまたま日記

昼間 - 希望 / 信仰

2000年1月21日(金) 00:00

朝、お風呂の中で思いついた新しい企画のメモをコンピュータで整理する。 インターネットを使ってできる企画を思いつくのはとても楽しい。

その後、書籍の原稿書き。 とてもよい。 執筆とともに作業記録をつけているのだが、 私が集中して仕事をできるのは30分から90分くらいだ。 でも、つぼにはまった仕事ができるとその日一日がとても充実する。 客観的に見ると「つぼにはまった仕事」というのは心理的な面が大きい。 実際に書かれた文章が多くなくても、プログラムの量が少なくても、 何かしら、こう、正しいと思える方向に進んでいる実感のようなもの。 「希望」といってもいいかもしれない。 ふと、ヘブル書の「信仰」についての言明を思い出した。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 (ヘブル11章1節)

残務整理が一段落して、もうすぐ妻子が帰ってくる予定。 とてもうれしい。

2000年1月20日(木)

ワインバーグ

2000年1月20日(木) 00:00

朝、書籍の原稿書き。とてもよい。

最近、ワインバーグの『スーパーエンジニアへの道』(木村泉訳、共立出版、ISBN4-320-02563-6)を読んでいる。 訳者も書いているように書名が少しナニですけれど、内容は他のワインバーグの本と同様に一級品である。 技術者全般にお勧め。

2000年1月19日(水)

夜 - ページデザイン

2000年1月19日(水) 00:00

結城のほぼすべてのページの一番上には「ナビゲーション」のためのリンクが集めてある。

一行目はそのページ固有のリンクで、たいていは「ホーム」と「1レベル上に戻る」リンクになっている。 日記の場合にはバックナンバーなどへのリンクもある。

二行目と三行目は固定で、 読者に訪れてほしいリンクになっている(こういう形態をすべてのページでとれるのは、MakeWebの -include 機能を使っているからだ)。

ページの最後にはCopyright表示とかページのURLが書いてある。 これは各ページを印刷したときにも、ページへの参照がわかるようにするためである。 「リンクはご自由に。フィードバックはお気軽に。」というのは私の気に入っているキャッチフレーズである。 「リンクはご自由に。」というのは(TeXの)奥村さんがページの最後に書いていたのをお借りした。 (ところで各ページのこのキャッチフレーズもリンクになっているって知っていましたか?)

目次、更新履歴、リンク集、感想を一言などはあちこちのページに含まれている。

文章中にリンクを含めるのは私はあまり好きではないので(使わないわけではない)、 文章が終わったあとに「文中で言及した参考文献」的にリンクを張ることが多い。

こういうページデザインは自分が見て「しっくり」くるように試行錯誤して得た結果なので、 とても気に入っている。自分の思考パターンにあうのですね。

ページ作成に使っている道具は、以下の通り。 大昔はページ作成のGUIソフト(といってもNavigator Gold)を使っていましたが、 スピードが遅くてストレスがたまりすぎ、すぐにやめました。

  • Windows NT 4.0が動いているノートパソコン(ThinkPad 570)
  • 秀丸エディタ
  • ActivePerl と MakeWeb
  • nmake (更新したファイルだけHTMLに変換するため)
  • ftp (Windowsに標準でついているもの) と UpFtp (最近作ったPerlスクリプト)
  • Navigator

ホームページを持っているみなさんは、どんなページデザインですか。 どんな道具で作っていますか。

昼 - 「豊かな人生のための四つの法則」への反論とそれに対する返事

2000年1月19日(水) 00:00

読者からのメール(抜粋+編集してあります)

豊かな人生のための四つの法則。私は断じて反対です。 キリストを受け入れないと、罪を許さないほど神様の心はせまいのですか? キリストを受け入れないと神の子じゃないんですか?じゃあ何の子? キリストを受け入れない人には永遠のいのちを与えないほど 神様は意地悪なのですか?絶対に違う。神がいるなら (神の定義は難しいけれど、私はいるといいます。) 神がいるなら、万物において平等であるはず。どんな奇人変人も、 殺人鬼も一般人も聖職者も同様に愛するはず。(愛しているのなら)

結城の返事

メールありがとうございます。 結城はあなたの後半部分(神はすべての人を愛している)については同感です。 私もそう思います。 神様の方はすべての人を愛していると思います。

でも前半部分についてはそうは思いません。 あなたは、「罪」と「罪をおかす人間」を同一視しています。 でも、キリスト教はこの二つを注意深く分けているように思います。 よく言いますよね「罪を憎んで人を憎まず」って。 私はこれはよくキリスト教の精神を表していると思います。 神は(罪をおかさざるを得ない)人間を愛しているのです。 しかし神は罪を憎むのです。 ですから人間が罪をしっかりと抱きしめて抱きしめて自分の人格と分かちがたく一体になっている場合、 その人間は天国へ(つまりは神様の御もとへ)行くことは本質的に不可能であると私には思います。 そして、問題は、ほとんどすべての人間が生まれながらにして罪をしっかりと抱きしめているということなのです。

それは神様が意地悪だからではなく、もっと本質的な問題なのです。 自分が罪に満ちたまま天国に行くというのは、 空を飛びたくないのだけれど空を飛びたいとか、 東に行きながら西に行きたいとか、眠りながら目を覚ましたいとか、そういう事項のように思えるのです。 神様が聖書を通して教えているのは 空を飛びたいならこうしなさい、東に行きたいならこうしなさい、 そしてそのように心から願うなら、私(神様)がそうさせてあげよう。 ということです。 罪をおかした人は死に値する。そのルールをまげることは神様はしません。 その変わりに、罪をおかさなかった人をあなたの身代わりとして死に渡そう、 と神様はお考えになったのです。

自分の力では、自分にべっとりと染み付いた罪を洗い流すことはできません。 洗い流すことができるのはキリストの血潮だけです。 あ、これは霊的な比喩です。 「キリストの血潮で洗い流される」 「キリストの救いを受け入れる」 「キリストによって罪があがなわれる」 「キリストがあなたの身代金を払った」 など、好きな表現で構いません。

キリストを信じる、というのは道徳的な教義を頭で理解する、という意味ではなく、 キリストがまさに自分の(ほかの人の、ではなく)罪のために十字架にかかって死んだのだ、 という事実を自分の問題として受け入れ、心を開いて、キリストを自分の主として受け入れることです。 神様は、存在するのです。 私たちの存在よりもずっと高い次元で存在するのです(ちょうど小説の主人公よりも小説家の方が高い次元で存在するように)。 その方が自分に関わってくださることを自分から求めるのです。 あなたが心を開かないと、神様は限定された範囲でしかあなたに影響を及ぼしません。 それは神様が自由意志を尊重なさっているからです(このあたりちょっと不正確ですが、簡単に書いています)。

神様は意地悪ではありません。 神様はあなたを愛しているのです。 神様があなたの罪を悲しみ、 あなたが神様を求めることを欲し、 あなたが神様に心を開くことを願い、 あなたが悔い改めることを期待するのは、 神様があなたを愛しているからなのです。 神様があなたを愛していなかったら、 あなたがどんな人間でも関心を払わないでしょう。 でも、神様はあなたを他の誰とも交換不可能な唯一の貴重な一人の人格として愛しているのです。

神は愛です。 そして神様はほかならぬあなたを愛しているのです。 これが聖書の(そしてキリスト教の)中心となる主題です。

あなたの疑問や不満はとても自然です。 多くの人が同じように感じているでしょう。 でも、それは聖書に書かれている「神」「愛」「罪」「ゆるし」の本当の意味を まだ理解していないからだと私は思います。 しかし、あなたの疑問は真摯なものであり、誠実なものであると私は思います。 ですから、ぜひ、もう一度「四つの法則」を読んでくださって、 自分のこととして祈ってみてください。 愛について理解させてくださるのも神様の恵み深い御働きの一つです。 ですから祈って神様の御働きがほかならぬあなたに及ぶように願ってください。

あなたを四つの法則に導いてくださったのは神様の働きです。 この貴重な機会をどうか十分に生かしてください。 「祈る時」はいつだって「今」しかないのですから。

なお、さまざまな読者からの疑問と、 それに対する私の個人的な考えは以下の「日記ダイジェスト / 対話」に 書きましたのでお時間があるときにごらんください。 メールありがとうございました。

朝 - 原稿書き

2000年1月19日(水) 00:00

朝、本の原稿書き。 今回の本の「魔法の呪文」が少し見えてきた感じ。でもまだまだ。 進捗は直線的ではない。

バザール方式の「しょっちゅうリリース」することのメリットの一つは、 そのソフトウェアを他の人の意識にのぼらせる確率を上げることにあるのではないか。 Webページのリピータが頻繁に更新されるページに集うのと似ている。

2000年1月18日(火)

朝 - 文章を書いて考える

2000年1月18日(火) 00:00

朝、仕事に関する啓蒙的な本をいろいろ読む。その後、 最近自分の中でぐるぐる考えていることが苦しくてしょうがないので、 まずはディレクトリを作ってファイルを作って、祈ってから、 心に思うまま、何の規制もなく、考えるとおりに書いてみる。 誰に見せるわけでもないから気楽なものだ。 そうすると、膨大な量のテキストが吐き出され、すごくすっきりした。 まさにカタルシス。 また、頭の中で考えているよりもずっと建設的で、 感情の不快な揺れ動きも少なく検討ができる。 しかもテキストという実体が残るから、無為な時間を過ごしたというむなしさもない。 誰に見せるわけでもない、とは言うものの、 文章の内在律(by筒井康隆)によってちゃんと人に見せても恥ずかしくない文章になっているから不思議なものだ。 時間にしたら30分くらいなのだが、とても充実。 とここまで書いてきて、これは「一人ロバ耳」であることに気がついた。

先日、青空文庫からのリンクで結城のページをはじめて知ったというクリスチャンの方からメールをいただいた。 何だかこういうのってうれしいですね。 ネットのいろんな活動も、 恥ずかしがらずに大胆に公開していくと、 いろんなつながりが生まれるものですね。 青空文庫の訳者紹介も自分で書いていて気恥ずかしいのだけれど (著者紹介よりも訳者紹介の方が長いというずうずうしさ(^_^;)、 そういうのも神様が用いてくださって出会いを与えてくださることを期待し、感謝します。

この日記をお読みのみなさまも、 ぜひメール友達などにこのホームページをご紹介くださいね(すりすり)。

2000年1月17日(月)

舞踏会

2000年1月17日(月) 00:00

月曜日に仕事にかかるのはつらいものである。ですよね、みなさん(^_^)。 特に、さて出かけようと外を見たら雪が降っていたら出鼻をくじかれた感じがします。 やれやれ。 でも何とか気を取りなおして仕事に出かける。 打ち合わせをしたり、指示をしたり、メールを読んだり出したり、 そんな風にして一日の仕事はすぎていく。 でもときどき、人生っていうのはなかなか面倒で複雑なものだなあ、などと思ってみたりもする。

家に帰ると家内からの留守電が入っている。 しばらくして家内から電話がかかってくる。 一言、彼女(きゃー、彼女だって)の声を聞くと、 何だか今日一日の疲れやぐちゃぐちゃが一瞬にしてなくなってしまって、 急に元気になる。 で、家内にそう言う。家内は「へへ」などと笑っている。 次男が少し鼻をたらしていたが治ったこと、 図書館で長男にたくさん本を借りてきたことなどの話を聞く。 長男に本を音読させて、聞いてあげてね、と家内に言う。

家内は、私と似ているようでいて違う、違うようでいて似ている。 私が家内を素敵だなあと思うのは、何と言うか…よい意味で賢いところかなあ。 私に合わせて、モードをすっすっと切り替えてくれる。 私の話をよく聞いていて、でもちゃんと自分で理解して返事しようとする。 で、いきなり本質的なところを突いて来たりする。 こっちがひしゃげているときには、励ましを与え、 傲慢になりかかっているときには、ちょいと水を差す。 人間的な思いにとらわれているときには、祈りの必要と聖書的な視点を思い起こさせてくれる。 私がほめると「旦那さんがいいからよね」などと返してくる。 まあ、世界一の家内と言えましょう。

家内は、信仰を得てから結婚について祈ってきたと言っていた。 家内のお母さんも、娘の結婚について祈ってきて、 しかも早く嫁げとせかすことはなかったらしい。 神様が最善の相手を備えてくれると信じていたのだそうだ。 すごいなあ…(と私が言うのは変ですが)。 私はお義母さんに「こんなすばらしい娘さんを育ててくださってありがとう」とお礼を言うのだが、 もちろんそれよりも前に神様にお礼を言わなくては。

付き合っている相手や配偶者がいても、 おうおうにしてその相手の悪いところとかまずいところばっかり愚痴ってしまいがちだ。 相手が「存在している」ということ、 その大前提を感謝することを忘れてしまいがち。 自分自身についてもそうだ。 自分が「存在している」ことを神様に感謝することを忘れがちだ。 何度も何度も、私は神様に感謝し、家内に感謝し、 私を支えてくださった多くの方に感謝しなければならない。

チェスタトンが書いているたとえ話にこんなのがある。

12時までしか舞踏会にいられないシンデレラが魔法使いに文句を言う。
「どうして、わたしは12時までに舞踏会から帰らなくちゃいけないの?」
それに答えて魔法使いが言う。
「そもそも、おまえは何で舞踏会にいられるんだね」

2000年1月16日(日)

夕方 - 批評家には黙ってもらおう / クラッカー(?)

2000年1月16日(日) 00:00

午前中、体調が思わしくないので自宅でテープ礼拝。 昼はおかゆなどを食べる。 午後から少し元気になってきたので笛を吹いたり原稿を書いたりする。

いったん自分の中の批評家を黙らせておいて、 手の動くまま原稿を書いたら楽しいこと、楽しいこと。 どんどん文章が書ける。 まあどうせ大半は、ずたずたに校正するのだが、 自由に書き進めるってこんなに楽しいのかと改めて感じた。 やっぱりうじうじ考えているより、具体的に進めている方が楽しいなあ。 文章を書き始めると、まわりの世界は消えて別世界に遊んでいるみたい。 どんどん書く局面では、ためらわず書くと元気になるなあ。 自分の中の批評家は、校正のときに活躍してもらうことにしよう。ふふ。

またクロサワネットから統計情報が来る。 別途詳細情報をダウンロードし、 Perlでログ解析のスクリプトを作ってながめていたら、 祈りの掲示板で連続的に削除を試みているアクセスがあった。 すわ、クラッカーか、と一瞬思ったけれど、 たぶん検索エンジンのロボットさんがいらしたのであろうという結論。 ページ中のリンクを総当り的にたどってみたのだね。

UpFtpはなかなか便利便利。自分で使うツールを自分で作るとあとあと修正が楽でよい。

昼過 - かなう祈り、かなわない祈り

2000年1月16日(日) 00:00

私はある方から、 「そんなつまらないことを祈って、クリスチャンはどうかしてるんじゃないの」 と言われたことがある。

よく記憶はしていないが、 コンピュータが不調のときに、 何とか直るようにと祈ったりしたことに対してだったように思う。 そのときは何と答えたかよく覚えていない。 たぶん、どんなつまらないことでも、神様を信頼して祈るのはよいことだ、 とかそんな風に答えたか思ったかしたのだろう。

今日、ふと手に取ったルイスの「神と人間との対話」(新教出版社 ISBN4-400-52057-9)の中に、 そこに触れる記述(p.89)があった。以下はそれに触発されて書いた文。

祈りとその結果はおうおうにして「因果関係」としてとらえられる。 祈ったからコンピュータの調子がよくなった。 祈ったから仕事がうまくいった。 祈ったからよい結婚ができた。 というように。 これはこれで結構なことだが、 祈りが「かなえられる」ことと同じように(いや、それ以上に) 神様によって祈りを「聞いていただける」ことの方が重要なのかもしれない。 神様が祈りを聞いてくださる。 神様が私の人生に関与してくださる。 個々の祈りが「かなう」ことよりも、 個々の祈りによって、 いつも自分が神様との関係の中に生きることの方が大事なのではないか。

とここまで考えると、 最初に書いた「そんなつまらないことを祈って…」と言った人の気持ちが少しわかるように思った。 この人は祈りを神様との交わりの場としてではなく、 自分の願いをかなえる「因果関係」としてとらえているのではないか (信仰をもっていないかたなので、それを責めるつもりはないですが)。 だとするととても納得が行く。 成就するようにと願い事をするならば、 そんなちっぽけなことではなく、もっと世界のためになる、 他の人のためになることを願えばいいではないか、 なぜ自分の機械のことや目先のことだけを願うのだ、 というわけである。ごもっとも。

だが、祈りは神様との霊的な交わりの場なのだ(花嫁が花婿とむつまじく過ごすのと似ている)。 神様が私に人生のすべての場において関わり、 関与してくださることをわたしは願う(願いたい)。 人生のどんなささいなことであっても、 それが自分の願いどおりになるかならないかは二の次にしても、 それを神様の前にもっていく。 それが祈りなのだ。 その祈りや願いはかなうかもしれないし、かなわないかもしれない(父が愛する子を養育するのに似ている)。 しかし、神様を信頼してそれを神様の前に持っていったのだから、 かなっても、かなわなくても、それは神様が最善としてくださったのだと信じよう。

コンピュータのメモリのことでも、 掃除のことでも、頭痛のことでも、結婚のことでも、仕事のことでも、 環境問題でも、世界平和のことでも、 問題の大小に関わらず、それを神様の前に持ち出そう。 とくにそれが自分の心にかかっているならば。 他の人が何と言おうと、いまの自分の心にかかることをあらいざらい、神様の前に広げよう。 神様に「聞いて」いただこう。

そして、いつも、神様に感謝し、イエスさまに栄光をお返ししよう。

早朝 - UpFtp 1.0.0

2000年1月16日(日) 00:00

Net::FTPの練習の続き。 自動的にディレクトリを移動しつつ更新すべきファイルのみをPUTするスクリプト。 何かそれっぽいものができたので、ページを作ってみる。 まだばぐばぐだと思うけれど、とりあえずの役には立つ。

2000年1月15日(土)

夜中 - メールへのお返事

2000年1月15日(土) 00:00

(以下は、2000年1月14日 (金) 昼の日記に対する読者からのメールへの返事です)

私も達観しているわけではなくて、 日々もがいて、あんな日記も書いているわけですが…

勝手なことを書けば、 やはり受け取っている愛の不足のように思います。 落ち込むのは。

客観的なところはさておき、 感情的にゆすぶられるのは、どうしても自分で自分を攻撃してしまう からですよね。あるいはいわれのない思いが自分を攻撃するのを 許可してしまう、というか。

私は(べつにキリスト教に勧誘しているわけではないですが)、 やはり、自分の行いとは無関係に受け入れられる、という経験が 重要なように思うのです。 自分の行いがどうであれ、どんなことをしてもしなくても、 自分は受け入れられている、自分はOKである、 という理屈抜きの体験が重要なように思うのです。

自分の行いがどれほどひどくても、私自身はまるごと受け入れられている。 自分の行いがどれほどよくても、私自身への愛が増えるわけではない。 もともと、私自身への愛は十分だから。

(そして、私にとっては、神様からの愛、そして家内からの愛がそれに相当するのですが)

それを体験して、そして自分でも自分自身に対して 「わたしはOKである」と言い聞かせつづける練習が必要なのかも。

あなたにもしも子どもがいて、 いろんなことがうまくできずに泣いているとします。 するとあなたは「こんなこともできずに泣きやがって」と ばしばし叩きますか? そうはしない(したくない)ですよね。 たとえ、いろんなことができなくても、 そのこととはべつに、 「わたしはあなたを愛しているよ」と 言ってあげますよね(あるいは言ってあげたいですよね)。

自分自身に対して(自分自身の中でおびえている子どもに対して)、 それと同じように言ってあげましょう。

「わたしはあなたを愛している」

と。 そして、これはそのまま聖書の言葉なのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 (イザヤ書43章4節より)

わたしも、あなたを愛しています。

夜 - 日記めぐり

2000年1月15日(土) 00:00

夜、また気分が悪くなる。 食欲がないのと、食べてもおいしくないので、不愉快。 腸が眠っているのかもしれない。 お腹を手で押して応援してみる。

退屈なので、日記めぐりをする。

稲本さんの日記(2000年1月15日)では、無言電話撃退法の話が書かれていて笑った。 新興宗教撃退方法についても書かれていた。 そういえば、私のところにも以前勧誘に来たことがある。 そのときは「準備」をしていた。相手が帰った後、 その宗教のどこがおかしいかを書いたトラクト(伝道用のパンフレット)を持って後を追っていったことがある。 相手を呼びとめて「これを読んでください」と渡したのである。 まあ、きっとすぐに捨てたのだろうけれど。

インチキ妻さんの日記(2000年1月15日)では、例によって夫婦の問答が楽しい。 インチキ妻さんもいい味だしているけれど、インチキ化学者の旦那さんもいいなあ。 そういえば我が家は結婚して今年で10年目になるから、少しは結婚について語ってもいいのかしらん。

  • 稲本さん
  • インチキ妻さん

昼 - 味噌汁 / 注射

2000年1月15日(土) 00:00

昼過ぎまでぐっすり眠る。 その後、ぬるめのお風呂にゆっくりと使って文庫本を読む。 髪を洗ってドライヤーをかけると、気分がだいぶすっきりする。 お昼ご飯を食べに町に出る。 人ごみに入るとまた少し気分が悪くなる。 ぐるぐると歩き回ったあげく、くるくると回るおすし屋さんに入って少しつまむ。 お味噌汁を飲むと元気が出てきた。 きっとナトリウムポンプが回り始めたのだろう(意味不明)。 私はほっと一息ついて、昔の僕のことを考える。

実家のお母さんは、もう退職したけれど看護婦をしていた。 小さいころ、病院に入院すると、 売店で牛乳びんに入ったオレンジジュースを買ってくれた。 お母さんが病院で日直のとき、僕と姉はよく病院で遊んだ。 病院の内線を使って電話ごっこをし、 レントゲンのフィルムをはさんでおく黄色い紙にお絵かきをしたものだった (いまでも、その紙の色合いをよく覚えている)。 病院のエレベータで遊んで怒られた。 お母さんから薬包紙の包み方を教わって、重曹を薬に見たてて練習した。 病院特有の匂いは、僕にとってはお母さんの匂いである。

お母さんは注射がうまかった。 僕は小さいころ定期的に血液を採って血沈の測定をしていた(そういえば、なぜだろう)。 白衣のお母さんが僕の腕を押さえる。 親指を中に入れて軽く握るようにと言う。 僕は言われた通りにする。 お母さんの手がくるくると動いてゴムバンドで上腕を止める。 ちくっとするからね、とお母さんが言うけれど、 いつも、ほとんど痛みは感じられない。 だから僕は注射器の針の先をじっと見ている。 お母さんの注射は痛くない。

お母さんは、注射器がまだ腕に刺さっている間にゴムバンドをはずす。 そして、脱脂綿をあてると同時にすっと針を抜く。 ひやりとした感触と、アルコールの匂い。

お母さんの匂い。

朝 - Net::FTPの練習 / [Letter]

2000年1月15日(土) 00:00

朝、ふと思い立ってNet::FTPの練習をしてみようと思う。 +perldoc cpan でCPANの使い方を調べ、 +perl -MCPAN -e shell; と実行してみると、cpan> というプロンプトが現れるので、 CPANのインタラクティブモードに入った(ようだ)。 そこでおもむろに、 +install Net::FTP と入力すると何やらごちゃごちゃと表示されてCPANからダウンロードを試みる。 しばらくすると自分でテストをはじめOKだよ、と言われる。 次に、 +perldoc Net::FTP と入力してモジュールの使い方を調べる。 試しにホームページのindex.htmlをgetしてみる。 以下のようなスクリプトを書く。

use Net::FTP;
$ftp = Net::FTP->new("my.host.name", Debug => 1);
$ftp->login("myloginname", "mypassword");
$ftp->cwd("mydirectoryname");
$ftp->get("index.html");
$ftp->quit;

(もちろんmyではじまる文字列は変えて実行する) これを、動かすとネットにつながって index.html がgetできた。 あっけないくらい簡単だ。 getをputに直せばputもできる。 ふむ。 これを応用すれば「指定したファイルのうち、 前回putしてから更新したファイルのみを指定したディレクトリにputする」 というのは自動化できそうだ。 つまりこれはホームページの更新ですね。 まあ、Net:FTPを使わなくても、 systemでftp.exeを動かしてもできるのですが。

クロサワネットでのcronの設定をやっと理解した。[Letter]の引っ越し完了。

2000年1月14日(金)

夜 - MakeWeb 3.0

2000年1月14日(金) 00:00

MakeWeb 3.0を公開。 といっても -if html ... -endif がついたくらいでMakeWeb 2.0からあまり変化はないが。 「翻訳の部屋」で、HTMLとPDF(LaTeX)を一つのテキストファイルから生成するためにつけたが、 まだLaTeXの特殊文字(# とか _ とか < など)を意識していない。 まあいいや。 これまでダウンロードのページにまとめていたが、 このたびMakeWeb専用のページを作ることにする。

結城のページはレイアウトをかなり統一しているが、これができるのはMakeWebのおかげである(Perlのおかげとも言う)。 共通のヘッダファイルと共通のフッタファイルがあり、これを変えさえすれば全ページのレイアウトが一気に変わるのだ。 目次も自動的に作られるし、便利便利。

例えば↑の箇条書きのリンクは、MakeWebの入力ファイルでは↓のように書く。

-[
>- MakeWeb
../makeweb/
>- 翻訳の部屋
../trans/
-]

そうすると、HTMLとして↓のようなファイルができる。

<UL>
<LI><A HREF="../makeweb/">MakeWeb</A>
<LI><A HREF="../trans/">翻訳の部屋</A>
</UL>

昼 - 寝込む / 落ち込むパターン / 性格

2000年1月14日(金) 00:00

気分転換にPerlの青ラクダを読む。 先日久しぶりに送ったばかりの[PE]のバグを見つける。 レビューアからさっそく指摘される (^_^; ありがたいありがたい。 メールマガジン『Perlクイズ』を送る。現在1315部である。

熱は下がったものの、お腹が痛いのと体がだるいので今日は一日寝ていることにする。 バファリンを飲む。 家内は義父が亡くなった後の事務手続きなどでまだしばらく実家にいることになる。 家内は電話で、そばにいられなくてとても申し訳ない、と私に謝る。 謝らなくてもいいよ、そっちも体を大事に、と言う。 家内がいないのは確かにさびしいのだけれど、 3時間おきの授乳をしながらあちこち走り回らなければならない家内の方が、 私よりはるかに大変だと思う。

私の気持ちが落ち込むときにはパターンがあって、 叱られたときとか叱られると思い込んだときが多いような気がする。 前にも書いた気がするが、 自分の行動や自分の考えに神経質・過敏になっているときがつらくなるパターンだ。 他の人はそんなに私のことを意識しているわけではないのだが、 「あの人はこう考えるのじゃないか」 「こんなことを言われるのじゃないか」 「なぜこれをしなかったと詰問されるのじゃないか」 などという気持ちがぐるぐるすると、何だかいてもたってもいられなくなる。 そういう思い込みはこれまでに何度も何度も経験していて、 ほぼ100%私の思い込みにすぎないということがわかっていても、 感情的にはゆすぶられる。 そういうときには、どうするか。 神様に祈ってすっぽり受け入れてもらって、安心する。 誰か(例えば家内)を捕まえて、言いたいことをしゃべっちゃう。 自分の胸の中にある「どーしよ、どーしよ」という気持ちをお手々でくるくるっと丸めて(比喩ではありません)、 ちょっとわきにぽん、と置いてみる。 「そのことは後で考えることにしよう」と決めちゃって、 機械的に自分を動かしたりすることもある。

自分の神経質さ、過敏さ、というのがちょっぴり面倒になることもあるけれど、 これもまた神様が与えてくださった私の一部、という目で見てあげる。 そうすると、まさにこの神経質さと過敏さが、 人に対する思いやりや細かなケアに深いところで関係していることがわかる。 私はいつも思うのだけれど、 人の性格はその一部分だけを取り出して都合のいいように矯正することって無意味じゃないだろうか。 リンゴの傷んだ部分だけをナイフで切り出すようなことはできないのじゃないだろうか。

もちろん、性格のゆえに、苦しかったり都合が悪いことが起こることもあるだろう。 でも、それは性格が悪いというよりも、 もっと全体的なバランスが崩れていることが多いのじゃないだろうか。

ピアノで美しい曲を弾いているときに、出し抜けに真ん中のドの音を思いっきり叩いてみる。 もちろん曲はだいなしになる。でもだからといってドの鍵が悪いわけじゃない、 ドの鍵をピアノから除いてしまっては、曲の中でドを弾くべきときに困ってしまう。 人間の特性や性格も、適切な時に適切な程度だけ開かれることが必要なのではなかろうか。 でも神ならぬ人間はその用い方を間違ってしまう。 そして特性や性格そのものを攻撃してしまう。

神様は私をまるごと愛してくださっている(もちろん、あなたも)。 神様は私という「ピアノ」を使ってすばらしい曲を弾こうとしていらっしゃる。 私は、でも、おうおうにして神様を悲しませる曲を弾いてしまう。 そして「ああ、このドの鍵盤が悪いのだ」と思ってしまう。 でも神様はそうは考えないのではないか。 個々の鍵盤が悪いから取ってしまえ、とは考えず(もちろん神様が必要だと思えばそうなさるであろうが)、 正しいタイミングで正しい強さで鍵盤を叩くことを神様は辛抱強く教えようとなさっているのではないか。 …そんな風に私は考えている。

私も、あなたも、他のみんなも、同じ人間であり、一人一人違う人間だ。 だから比較は無意味だ。 神様はそれぞれ一人一人をお作りになり、 それぞれにかけがえのない人生をお与えになる。 交換不可能な人生なのだから、比較することもできない。 みんな、神様が与えてくださった「自分の人生」を生きるのだ。 比較がないのだから、失敗もない。 だから、人生に恐れる必要もない。 恐れるべきお方は神様ただ一人である。

あなたはどう思いますか。

朝 - 不調と復調

2000年1月14日(金) 00:00

昨晩急に体調がおかしくなり、 微熱で苦しくなったので早めに眠る。 葛根湯を飲んで10時間眠ったらだいぶ復調した。 感謝。 たぶんいろんな疲れがたまっていたのであろう。

2000年1月13日(木)

仕事 / 掲示板運営

2000年1月13日(木) 00:00

朝、書籍の原稿書き。 祈って仕事をすると、何と平安なことだろう。

知人の或る掲示板が閉じられた。 急激な人口増加ともに、 掲示板のクラッキング(?)にあったのが原因のようだ。

以下は一般論。 拙著『Perlで作るCGI入門』基礎編でも触れたけれど、掲示板の運営は難しい。 どういう話題を導き、どういう発言を削除し、などなど。 世の中には本当にいろんなことを考える人がいるし、 言葉でそれをどう表現するかにも技術の差がずいぶんある (つまり、よかれと思った発言でも、表現のまずさのために誤解される場合が多々ある)。 掲示板の管理者をやったことがある人は、 単に発言者である場合とずいぶん気持ちが変化するということを知っていると思う。 掲示板運営は難しい。

でも、私は、個人運営の掲示板の場合は「管理者がルールブック」なのだと思っている。 管理者が削除したいと思った発言を削除し、残したいと思った発言を残してよいのだ。 掲示板そのものだって、管理者が好きなようにはじめて、やめたいときにやめればよいのだと思う。 管理者の価値観や判断が「本当に正しい」かどうかというのはあまり考えなくてもよい(考えてもいいけれど)。 一人の人間が判断することで、その管理者ならではのトーンを持った掲示板ができてくるのだと思う。

Yahoo!Japanに自分のページをうまく登録してもらう方法はありませんか、という質問メールをいただきました。 結城もうまく登録される方法は知りませんが、 「Webページ作成の心がけ」にはヤフー関連の経験を書いたメモがあります。 「独自性が高いページ」をアピールしたり、 ライバルが少ないカテゴリーを選ぶなどの工夫もよいかもしれません。

2000年1月12日(水)

打ち合わせ

2000年1月12日(水) 00:00

午前、久しぶりにまとまって書籍の原稿書き。すっごくうれしい。 夕方から夜にかけて、N編集長と打ち合わせ+飲み会。 これまでのこととこれからのことを互いにいろいろ相談。

トーキー!とボイス!のユーザから感想文をメールでいただく。感謝。

本当にすばらしいソフト、有り難うございました。 トーキー!では、ストレス無くチャットが出来、 また、この間ダウンロードさせていただいたボイス!では1年ぶりに親友の声が聞けましたので感激しました。 ネット電話では、遅すぎてやる気がしなかったのですが、すばらしいです。

  • トーキー!
  • ボイス!

2000年1月11日(火)

深夜 - 青空文庫

2000年1月11日(火) 00:00

青空文庫に『最後の一枚の葉』が登録される。 青空文庫に登録されている文書には「図書カード」がつく。 『最後の一枚の葉』と『賢者の贈り物』に書いてある、 「作品・著者・訳者について」という文章は私が書いたものだが、 こういうのって、何だか楽しいですね(ああ、またミーハーっぽい…)。

山形さんのプロジェクト杉田玄白を刺激として、 結城はオー・ヘンリー二編を翻訳できた(あと、ピーターも翻訳したけどいま押入れの中にある)し、 山形さんや青空文庫さんとお近づきになれたし、 両方から結城のページへリンクが張られたことになるし(これって大きな宣伝では…)、 何だかいいことずくめじゃないでしょうか。 うんうん。 自画自賛はそのくらいにして、きちんと神様に感謝しましょうね>自分。

  • 青空文庫『最後の一枚の葉』
  • 青空文庫『賢者の贈り物』
  • 青空文庫の「そらもよう」2000年1月11日
  • 青空文庫の「そらもよう」1999年12月9日

夜間 - 父

2000年1月11日(火) 00:00

10日の朝に不在になって11日の夜にいるなら、あまり不在とは言えないか (^_^;

義父の帰天にさまざまなことを思う。

義父の会葬に参加した実父とも電車や宿でいろいろ話す。 実父についてはこれまでも何回か書いてきた。

実父は、 勉強家で、Excelの知識は私よりもはるかにある。 凝り性で、音楽ソフトで楽譜を入力してカラヤンのCDの演奏と合奏させて楽しんでいる。 教育家で、自宅を使って子供たちにコンピュータを使った学習塾を開いている(ちなみに実母も、自宅でワープロを教えている)。 最近のコンピュータの参考書は、派手だがわかりにくいものが多い、と言っている。 私が書く書籍は父から高く評価されている。うれしい。 電車の中で、父から「教えるということ」についていろいろ教えてもらう。 私がこのホームページ運営や、プログラム書きや、本書きでやっていることというのは、 父がこれまでやってきたことととてもよく似ている、ということを再確認。 いわば、私なりの(また現代という時代なりの)バリエーションとも言える。

あ、それが不満なわけではなく、何というか…ああ、私はこの親の息子なのだなあ、 という思いでしみじみとするのである。 母からは、人当たりの柔らかさとコミュニケーションの力を受け継いでいるし、 うまく親の遺伝子がブレンドされて「私」を形作っているものだなあ、 などとうれしくなる。

こんな風に自分をとらえることができるようになったのは、 年齢もあるし、イエスさまの恵みのゆえだなあ、と思う。 20代の神経質でピリピリしていた時代と、30代のだいぶゆったりした時代を比べると、 ぜんぜん世界が違うなあ、と思う。

宗教の議論をネットですると、 水掛け論と不毛な議論で終わることが多い。 議論で救われる人は少ない(と思う)。 教義に関する議論もとても大切なことだけれど、 もしまだイエスさまの救いを信じる信仰を持っていない人がいらしたら、 本当の神様や、 自分の本当の姿というものに思いを向ける機会を若いうちに持っていただきたいなあ、 と心から願います。 いまの世の中うさんくさい宗教もたくさんありますから注意が必要ですが。

自分の人生をどのように構築すべきなのか、 何を土台にし、何をその上に積むのか、 というのを考える機会は早いうちに持つべきではないかなあ、と思います。 私は、やっぱりその土台というのは「聖書」だと思うのです。 時を越えて存在し、時代がどんなに揺れ動いても変わらずにある神の言葉「聖書」。 あなたが10代でも、20代でも、30代でも、40代でも、50代でも、… あなたの今の問題に適切な指針を与えてくれるのが聖書だと思います。 聖書に土台をしっかりすえて、生き生きした信仰を持ち、 大胆に祈り、喜びつつ歩み、神を信じ、人を愛する(ゆるす)…。

もちろんそんな人生は、自分の力でなすことはできない(少なくとも私にはできない)。 自分の力で聖書に従った人生を作ることはできない。 すべて神様の深い恵みと哀れみによるのです。 ある意味では自分の人生は自分のものではない。 神様が与えてくださったものだから。 神様からいただいた人生、今日という時間。 神様に感謝しましょう。でも、神様って誰?どんな方? → それは聖書に書いてあります。 お礼を言う相手を間違えないように、聖書をよく読みましょう。

2000年1月9日(日)

原稿 / 義父 / 祈ろう!

2000年1月9日(日) 00:00

連載の原稿送付。 みなさまのお祈りを感謝します。

入院しておりました義父は、 先日、平安のうちに帰天いたしました。 いまはイエスさまの御もとで休んでおります。 みなさまのお祈りに心から感謝します。

今日一日はいろんなことがありました。 しかし、 万事を益としてくださる神様を信じて祈るとき、 本当に最善がなされることをつくづくと感じました。 人間の考える計画など足元にも及ばない のご計画を心からほめたたえます。 ここ数日、さまざまなことでつらかったが、 やっぱり、聖書に書かれている本当の神さまを信じて、 大胆に祈るのが大事だとつくづく思わされました。

「最近聖書読んでないから」「最近教会行ってないから」「愛がないから」「信仰が薄いから」… というごたくやいいわけを並べる前に、祈っちゃおう。 両手を思いきり上げて、神様!と祈ろう。 理屈や小理屈を振り切って、蹴飛ばして。 イエスさまの十字架を覚え、 心の扉を大きく開いて、聖霊様を歓迎しよう。 何事も、それからさ。

そう、そう。 自分の力で頑張るのをやめて、深呼吸して、祈ろう。 私たちをまるごと、そのまま、弱いまま、愛してくださる主なる神様に。

いま、すぐ、祈ろう。

神様!

2000年1月8日(土)

2000年1月6日(木)

2000年1月5日(水)

仕事始め

2000年1月5日(水) 00:00

家内の実家から東京に戻り、仕事始め。義父の入院は続いている。家内と長男次男はまだ実家。

早朝に移動したのだけれど、家を出るとき長男に「とーたんは東京に帰るからね」と言って起こす。 長男は目をつぶったままうなづく。 玄関のドアをあけたところで長男が「待って!」と声をあげたので、 私はまた家の中に戻り、両手を上げた長男を抱っこする。長男と家内が私を見送る。

休み明けで仕事に戻るのはすごくすごくすごくすごくいやである。 夏休み終わりの小学生状態だ。 いざ仕事をはじめてしまえばこの「いやさ」は夢のように消えるのだが。 そこに至るまでが長い長い。 やれやれ。

祈りはこういうとき「役に立つ」かというと、「役に立つ」 (役に立つという表現は正確ではない。実際に神様からの働きかけを受ける、という意味で使っている)。 ただし、問題は、こういうときにはそもそも祈る気分にはなれない、という点だ。 深呼吸をして、目を閉じて、手を上に上げ(いや上げなくてもいい)、 全部、全部、いつもの「いと高き、あの方」にお渡ししはじめさえすれば、うまくまわり始めるのだが、 そこまでの妨げが大きいのである。やれやれ。

深呼吸をして、目を閉じ、「 天にまします、われらの父よ 」と信じて祈り始めれば、過剰な自意識の殻が砕けはじめる。 それまでは「私が」「私を」「私に」「私は」という考えがぐるぐるしている。 まず、天のお父さんに呼びかけることで神様へと意識が向かいはじめる (ああ、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」はなんと完全な祈りでしょう)。 見栄やプライドはもういらなくなる。 信じて心を開くとき、聖霊様が満たしてくださる。 そして私は本来の自分を取り戻す。 自分のことばかり考えていると自分を失う、というのは皮肉だが真理だ。

祈り始めるまでは、祈れない自分すらも嫌悪の材料になるのだが、 祈り始めると、祈れない自分すらも、神様は哀れんでくださっていることを思い出す。 そうだ、神様は私の弱いところにこそ、働いてくださる方なのだ。 そうそう、そうだった。 とクリスチャンになってから10年になるというのに、 また今日も思い出さなくてはならない、と苦笑する。 でもそのことで自分を責めたりはしない。(^_^)

とにかく、信じて祈りはじめよう。 自分で答えを見つけてから祈りはじめるのではなく。 いま、すぐ、祈り始めよう。 そして神様に介入していただこう。

2000年1月2日(日)

統計

2000年1月2日(日) 00:00

またクロサワネットから統計情報が来る。以下抜粋。

/                                       1193           7859
/diary                                   889          22630
/bbs                                     588           6111
/whatsnew                                558           1867
/chat                                    469           2040
/inori                                   367           2933
/kokoro                                  363          10753
/nikki                                   241           4982
/security/remailer.html                  241           3627
/trans/magi.html                         207           2821
/catlink                                 204           1039
/four/laws.html                          183           2482
/security/pgpquiz.html                   159            925
/self                                    150           2095
/trans/leaf.html                         141           2105
/feed                                    137            561
/subs                                    134            368
/greeting                                 97            977

日記や掲示板などがアクセス数高い。 やっぱり日々更新される部分はリピータが多いということなのでしょう。 意外なのは feed である。フィードバックに137もアクセスがあるけれど、 実際にはここ経由で来たメールはあまりない。 ということは「フィードバックのページだけ見るが実際には送らない」という人がたくさんいるわけですね (たくさん、といっても一日20人)。

「賢者の贈り物」や「最後の一枚の葉」への感想メール、 とてもうれしいです。 ありがとうございます。 「ちゃんと読んだことがなかった」という方が意外と多かったです。

2000年1月1日(土)

新年

2000年1月1日(土) 00:00

新年あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

朝、お雑煮とおせち。 昼、パンとスープ。

引き続き引っ越し作業。 ただしノートパソコンの上でのみ行い、 実際のサーバにまだ反映はしない (帰省先はテレホーダイヤルに入っていないので長時間電話が使えないため)。

  • TODO:
  • 本や連載の分の引っ越し。
  • feed.cgiをwww.hyuki.comへ移動。
  • rimnetからwww.hyuki.comへの自動リンク張り。
  • 早期に引っ越したページ中のリンク張りなおし。
  • automap作り。
  • cgibookのページのリニューアル。
  • [Letter]の引っ越し。
  • 検索エンジンへの引っ越し登録。

日記一覧

2025年 010203040506070809101112
1999年 010203040506070809101112
[icon]
結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

Twitter note 結城メルマガ Mastodon Bluesky Threads Home